片岡鶴太郎、山頭火を書く(36)―酔ひたい酒で 酔えない私で落椿
酔ひたい酒で 酔えない私で落椿
私が山頭火の生き方に魅力を感じるのは、悟りを求める漂泊放浪の旅を続けながら、数え切れない破滅の行為を繰り返してしまった点。たいていは酒におぼれての不始末ですが、その後、極端なほど反省し、懸命の求道に戻ります。その繰り返しが、どうにも人間臭く、ついつい欲望に負けがちな自分と相照らし、「山頭火よ、お前もか!」と抱きつきたくなります。
山頭火の酒は豪快なもので、飲み始めの「ほろほろ」気分で
日本酒3合はいっていたようです。「一杯、東西なし。二杯、古今なし。三杯、自他なし」と、飲むほど気分は高揚(わかる、わかる。この気持ち)。飲み始めると止まらず、とろとろ、ぼろぼろ、そして、ついには街をごろごろ…。
そんな山頭火なのに、いまは落椿を前に一人、何杯飲んでも頭はさえ、酔えずにいます。酔って忘れたいのに、そんなときの酒は酔えないもの。
私にも経験があります。たとえば、失恋。たとえば、友人、家族、親しい人間との別れ。あるいは、この先どうなるのだろうという将来に対する漠然とした不安。後から後から思いがわき起こり、こんなときは酔い切れません。
山頭火の酒の相手は、落椿一つ。椿という花は、落ちてもきれいなものです。花の水分が多く、一番いい七、八分咲きの状態で、花の形そのまま、ぽたと音を立てて枝から離れます。これを人の首が落ちるのに似ているといって嫌う人もいますが、椿に似たサザンカが、花びらをバラバラにして散っていくのと好対照。私は椿に、生き方の潔さを感じます。
落ちた花を大事に拾い、杯に浮かべると、花は朱から深紅に変わり、これまた美しい。サザンカのようにボロボロになるまで地位や仕事にしがみつくより、余力を残し、さっと散る椿の方が、もう少しという思いは残るものの、美しい。そう
生きたいと私は、思っているのです。
このときの山頭火はどうだったのでしょう。落ちた椿を愛でながら、おのれの生き方はどうよと自分に問いかけ、とろとろ、ぼろぼろ酔えずにいたのでしょうか。
「椿のそばで酒をのむ」。
これは、私の句。さて、今夜は少し飲みますか…。(2007.10.30紙面掲載)
夕刊フジブログより
酒に酔うときって確かにな、酔いたいときって酔えないもんだよなっ。